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愛知歴史探訪 信長編8 柴田勝家編2
こんにちは。都タクシーブログ担当のノロです。
コロナが落ち着いてきて、久しぶりに友人などにあったりすると、
当然ながら、家庭を築いている友人たちも多く、
子供の話などをよく聞きます。
野球などスポーツをやっている子供も多いのですが、
よく聞くのは「最近のこどもは、キャプテンをやりたがらない」という話です。
チームのキャプテンの他にも、学級委員や生徒会など、所謂「まとめ役」をやりたがらないので、
大人たちが指名推薦をするのに、四苦八苦しているようです。
昔は、どこのクラスにも、どこのチームにも「やりたがり」がいたものですが、
時代というのは移り変わっているのですね。
さて、今回の歴史探訪は、そんなリーダーの争いをちょっとご紹介したいと思います。
信長編は7で終わりかと思っていたのですが、最近、信長周辺の家臣を特集するにあたり、
・・・これは、信長編にした方がよいかなというエピソードがでてきましたのでご紹介です。
場所は、名古屋市西区稲生町。
ひかり交通も西区にありますから、そこから車で10分くらいでしょうか?
大通りから少し入った目立たない場所に、小さな古戦場跡があります。
非常にわかりづらいところにあり、私もここに古戦場があることをしりませんでした。
こちらは、稲生の戦いとか稲生ヶ原の戦いとか呼ばれる合戦のあった古戦場です。
教科書にも載ってないので、知っている方も少ないですが、信長の評価を一転させた合戦です。
1551年、信長の父、信秀が亡くなり、信長が家督を継ぐことになります。
ところが当時、信長は「大うつけ」と呼ばれていい噂がありませんでした。
そこで、柴田勝家らが、信長の弟である信行を担ぎ上げおきたのが、この稲生の戦いです。
信長軍700、信行軍1700と圧倒的に信長軍が不利でした。
また、柴田勝家は戦上手と言われており、信長は苦戦を強いられましたが、
これに勝利を納めます。
このとき、ひとつエピソードが残っております。
戦乱のさなか、信長が大声を張り上げて一喝したところ、柴田軍は驚いて敗走したというのです。
ルイス・フロイスの記録のなかでも、信長は大声だったことで知られていますが、
いやはやすごいエピソードです。
立札にもありますが、この戦により、信長の評価は一変し、
尾張統一に加速がかかったと言われています。
なお、柴田勝家らと信行はこの後、母である土田御前の仲介により許しを得、
信長に忠誠を誓うことになるのですが・・・
このあとは、またの機会にお話しできればと思います。
リーダーの資質というのは、いくつかあると思いますが、
「声の大きさ」というのも、その一つだと思っています。
お客様も、タクシーにご乗車された時、ドライバーに小さな声で「ごにょごにょ」とあいさつされるより、
しっかりと通る声で話されるほうが、安心すると思うのですよ。
特に、いまは、いたるところで、飛沫予防のビニルシートやアクリル板で仕切られていますので
(空気感染が主と言われている現在、あれは、逆効果だという説もあるのですが)
信長ほどの大声でなくても、しっかりと聞こえる挨拶がありがたいですよね。